任天堂はゲーム性至上主義を反省している

 SFは当初「科学」という要素抜きには語り得ないものだったが、現在は、むしろそこで発明されたガジェットのみが使われ、その科学性は二の次のSFが主流だ。特に映画「スターウォーズ」が転換点と言えるだろう。
 推理もの成立時は読者が「推理」していたものだし、推理に値する奇抜なトリックが求められ、推理に必要なフェアな情報提示が求められた。いまや推理よりもミステリ要素の方が重要になっている。少々の矛盾に目くじらを立てる人は少ない。
 要するに、ジャンルを成立させた要素ではなく、その周辺要素によってジャンルは大衆に受け入れられる、という事だ。SFも推理ものも「本格」の成立後に、基本に加えて物語が求められ、その後様々に分化し大衆化したが、ゲームは今大衆化前夜だ。

 ゲームもまた「ゲーム性」という中心の要素ではなく、双方向性(インタラクティビティ)やコミュニケーション要素、の方が受け入れられる、ということ。
 そして、双方向性は「ボタンを押すと話が進む」程度でも十分だという事だ。
 あるいは、パチスロのインタラクティビティが限界、という人もかなり多い、と言い換えてもいいかもしれない。
 ゲームであるためにはゲーム性は大事だが、ゲーム性がなくても(ゲームじゃなくても)面白いものは面白いのである。世の中の面白さってのはゲーム性だけじゃあない。
 今まさに、ゲームはマニア(だけ)のものから、大衆化への道を踏み出す時代を迎えている。

 ちなみに、「ハードSF」や「本格推理」が今も連綿と作られていることからも、「本格ゲーム」が滅亡する可能性は考えなくてもいい。
 ただし、本格好み=マニアであるわけで、マニア=少数である。金かけて少数に売ってちゃ採算が合わない。金をかけて且つ本格であり続けるのは、なかなかの難事ということだ。
 会社としては、スケールメリットのある商売をしたい、ということで「本格ゲーム」は、個人か小集団で作られるゲームにシフトしていくだろう。
 実際に、シューティングゲームや、対戦格闘ゲームは同人ゲーム花盛りだ。

 最近、同人ソフトからアーケードや家庭用ゲーム機への移植が行なわれるようになったので、任天堂としても、セカンドパーティーの次は同人という考えも、少しは視野にはあると思うが近々実行するとは思えない。
 任天堂ゲームセミナー2006、なんてことをやっているので、勝手に公開されたものから選択するという曖昧な方法ではなく、自分のところで育てた個人や少人数の開発者を中心にしたいのではないかと思われる。
 以前リクルートと設立したマリーガルマネジメント1996-07設立は、おそらく商業的には失敗に終わったと思うが、プロデュース業としての任天堂の腕はかなりいけると、手応えがあったではないかと思う。

「ゲームとして面白ければ良い」という軸に重きを置きすぎたところがあった任天堂だが、人を楽しませるのにゲームに拘る必要はない、と自覚したようだ。
 任天堂は、そもそもゲームであることに拘ってはいなかった筈だが、どうも横井軍平氏の退社と時期を合わせるように迷走に入ってしまった。
 流石にN64GCと悲惨な状況を過ぎると、拘りは結局、市場の縮小を呼んでしまう、ということに気付いたようだ。

参考:【TGS】「今のゲーム産業はシューティングゲームと同じ」 任天堂岩田社長が基調講演